独り立ちして初めての営業

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タクシードライバーに出会いを求めるなんてと思っていたら、会社に高嶺の花がいた件 [独り立ちして初めての営業]


第一章 タクシー会社にいた高嶺の花
14 独り立ちして初めての営業


 俺はいまタクシー乗り場の先頭で、お客さんがやって来るのを待っていた。独り立ちして初めての営業。あまりの緊張に握るハンドルは汗でにじんでいた。

 会社を出庫し、タクシー乗り場に並ぶまではさほど緊張はなかったというのに、いざ自分の順番が近付くにつれてその緊張は急激に増していった。

 早くお客さんに乗ってもらいたいという気持ちと、ずっと来なくていいという気持ちで、いま俺の心は揺れ動いている。

 他のみんなも初めはこんな気持ちだったんだろうか? そう思うと、これを乗り越えてきた諸先輩方は本当にすごいと思う。
 
 そんな事を考えているうちに、駅から一人の男性がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。

 一歩一歩近付くお客さん。それにともない、俺の心臓はあまりの緊張からドクドクと脈を打つ。もう、いっそのことここから逃げ出すか? ふと、そんな事まで考えてしまう。

 そもそも研修時では、始めこそは緊張したものの、終わる頃には全くしなくなっていたのに、いざ独り立ちした途端にこの様だ。何とも情けない話である。

 そうこう考えているうちに、お客さんはタクシーの後部ドアの辺りで歩みを止めた。俺は反射的にドアを開ける。

「おはようございます!」

 お客さんに向け俺は元気よく挨拶をした。
 気持ちに気合いが入る。

「っ!? お、おはようございます······」

 少し気合いを入れすぎたせいで、お客は一瞬身体をびくつかせるも挨拶を返してくれた。

「どちらまで行かれますか?」

「企業団地の○○工業までお願いします」

「企業団地の······えと······」

 企業団地は知っているけれど○○工業が分からない。しばらく間があった。そして、間が空くほどに変な汗がにじみ出る。

「運転者さん分かります?」

「······企業団地は分かるんですが、その······○○工業が分かりません······。すいません······」

 分からない時は曖昧な返事をせずに、分からないと相手に伝えること。そう、これは宮坂さんの教えだ。研修時の俺だったら、きっとうやむやな返事をし、そしてそのまま走り出していたことだろう。
 
「あ、大丈夫ですよ。ひとまず企業団地に向かってくれますか? 近くになったら道案内しますので」

「あ、ありがとうございます! 助かります!」

 お客さんのその一言で俺は胸を撫で下ろす。そのお陰でピークに達していた緊張はいつの間にか消えていた。

 独り立ち第一号のお客さんは、ビジネススーツを着た若いお客さんだった。今から営業に行かれるのだろうか? 

 そんなことを思いながら、何気にルームミラーでお客さんの様子をうかがった。

 するとお客がさんは、うなだれるように頭を下げ、そして時折深い溜め息をついていた。

 えっ!? 一体どうしたんだろう? 

 信号が赤に変わると車を停車させ、ルームミラーで男性の様子を再度うかがう。

 すると男性が着るそのビジネススーツは幾分かくたびれており、まるで男性の今の状態を表しているようだ。

 俺はお客さんの事が心配になり、その理由を聞くことにした。

 本当はそのような行為をする事はよくないと研修のときに教わっていたが、だけど、お客のこの様子に俺は聞かずには要られなかったのだ。

「お客さん、具合が悪そうですけど大丈夫ですか?」

 少しの間があったが、すぐにお客さんはそれに答えてくれた。

「あ、はい、大丈夫です······」

 大丈夫だと言ったものの、その返事はあまりにも低く暗いものだった。

 今から向かう営業先は、お客さんにとって苦手な所なのだろうか? もしかすると苦情のフォローかもしれないな。だとしたら気持ちが沈むのも分かる。

「自分も昔、営業をした経験があります。あれって本当に大変ですよね······。理不尽なことばかりで自分には耐えられない世界でした。そんな世界から逃げた人間がお客がさんに偉そうなことは言えないのですが······で、でも頑張ってください! 応援してますんで!」

 的を得た励ましになっているのかわからない。
 だけど、そう言わずにはいられなかった。

 するとお客さんは呆気にとられ一瞬沈黙があったが、その後「ぷふっ!」と吹き出した。

「運転手さんそれ誤解ですよ。自分、今から帰社するんです」

「え!?」

 かっこよくお客がさんを励ましただけに、誤解って······何か恥ずかしい······。

「ま、でもありがとうございます。少し元気が出ました。ちなみに運転手さんは営業を辞めたって言ってたけど運転手も営業ですよね?」

「そ、そうですかね?」

「ええ、そうてすよ」

 タクシードライバーという職業をあまり深く考えたことはなかったけど、でもそっか、タクシーは運送業であり営業職でもあるんだ。
 あまり営業っていう感覚はないけど······。

「ところで運転手さん、いまのお仕事は楽しいですか?」

「え?」

 お客さんの明け透けな質問に、俺は思わず言葉に詰まってしまった。

 ──いまのお仕事は楽しいですか? 

 今まで仕事が楽しいかなんて一度と考えたことはなかった。だけど、もし答えを出すならきっとこうだろう。

『今までの仕事で、楽しいなんて思ったことは一度もない······』

 そう、今までやってきた仕事は決して楽しいものではなかった。いや、仕事は好きだったけど楽しいと思ったことはなかった。

 でも、今の仕事はどうなんだろう?

「実は私、この会社に入社したばかりなので、楽しいかどうかなんてまだ分からないんです。だけど、そうですね······何となくですけど楽しくなりそうな予感はありますよ」

 入社後のタクシー試験や合格後の研修においては何度も壁にぶち当たり挫けそうになった。
 そして、何度も辞めようと思った。

 ──でも何でだろ? 

 辞めることなく、こうしてこの会社に居続けている。今までの自分ならとうに辞めているはずなのに、今回はどういう訳か寸前のところで思いとどまる自分がいる。

 まだ今のところ仕事が楽しいなんて思わない。
 だけど······理由は分からないけど、楽しくなりそうな予感はする。

「仕事が楽しくなりそうな予感があるだけでも羨ましいですよ。それに比べ私なんか毎日が苦痛です。生き甲斐も何もあったもんじゃない······。毎日を惰性で働いている自分に呆れてしまう」

 この人、境遇は違えどきっと同じ人生を歩んでいるのかもしれない。共感はしてあげられるけど、助けてあげられない自分がもどかしい······。

「あの運転手さん······」

「は、はい、何でしょう?」

「よかったら名刺貰えますか? いつかまた、お世話になるかもしれないので」

「あ、わかりました。後で精算の時にお渡ししますね」

 その後、会社につくまでの道中、何でもない話に盛り上がり、気付けば目的地である会社に到着していた。そして、精算時言われていた名刺を手渡す。

「運転手ありがとう! 楽しかったよ」

 お客さんの表情を見ると、乗車したときの暗さは今は無くなり、どこか吹っ切れたのか笑顔で降りていかれた。


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